2024.12.25
ご利用者インタビューK.Oさん(8歳)のお母様【症状:低酸素性虚血性脳症、先天性多発小腸閉鎖症】

とっても素敵なフォトブックを見ながらいろいろなお話をしてくださいました。
診断を受けた時のお気持ちを教えてください
おなかの中にいた時から、症状などわかっていましたか
指摘をうけたのは妊娠8か月のときで産休に入ったころでした。
診断は胎児腹水と羊水過多の条件が重なったら小腸閉鎖があるかも、と言われていました。
もし、小腸閉鎖があったとしても生まれたら手術したら大丈夫ということで、普通に生活できますよ、と言われていました。まれに羊水過多、出血過多で脳性麻痺になってしまうかもしれないけど、こういうケースはまれだから大丈夫、といわれていました。
出産時は?
心拍が下がってたくさん出血して、臍帯から出血していたと思います。
最初は通常分娩で生む予定で2~3日様子を見ましたが、心拍が落ちてきて急遽帝王切開で出産しました。生まれたときは呼吸していなくて蘇生したのが出生35分後、時間がかってしまいました。生きていたのが奇跡。
亡くなっていてもおかしくなかったです。
一番不安だったこと、葛藤したことはなんですか
家に帰って来るまで精神的にしんどかったです。離れているときのほうがつらかったです。毎日状況が良かったり、悪かったりして、会いに行くことに結構勇気が必要でした。
面会の時しか会えないから、心配しかしていなかったです。もしかしたら明日は。。。と考えたり、夜中に電話がかかってきて「ちょっと怪しいです」と言われたり。
会って、顔をみれば少し安心できました。
面会はお昼1時から夜7時ぐらいまでで、私は夕方まで。パパが仕事終わりに7時まで来ていました。退院の話も何回かありましたが、誤嚥性肺炎に何回かなってしまい、退院予定が伸びて、また一から・・・終わりが見えない、それがしんどかったです。
成長があるわけじゃないというのは語弊がありますが、日に日によくなっていく時はいいですが、悪くなった場合はまた「ゼロ」からになるんです。
おなかの手術をしているから、なかなか栄養が進みませんでした。(治療の)終わりがみえないのがつらかったです。
面会も毎日行っていましたが、時には行きたくないと思ったこともありました。産後すぐがメンタル的にも一番きつかったです。
だれかその時支えてくれる人はいましたか
主人や母、義理の両親など、すごく前向きな人だから、みんなが応援してくれる感じでした。
その時のお気持ちや考え方が変わるきっかけなどがあれば教えてください
他に責めるとこがないので、当時は、自分のせいだと思いました。もうちょっと早く何とかできなかったのか、と。
会って顔を見てもつらくて...。かといって、離れている時間もすごくしんどかったです。
そこから難しかったと思いますが変わるきっかけや、気持ちの変化は
おうちに帰る話が出てきて、そうすると手技とかを覚える必要があり、入院中は本当に自分ができることがなかったけど、「やっとやってあげられることができたな」みたいな感じでした。
それで前向きになれました。それまではNICUの中にいたから、全部お任せでした。沐浴の練習とか清拭はちょっとさせてもらってはいましたが。
はじめて「自分が主体」になって、「帰る準備を進める」という前向きな感じがして、そしたら少し、気持ちが楽になった気がします。そこからは、土日は主人が、平日は私が主体となって「手技獲得」に通いました。
その後、「体調さえ整っていたらお家に帰れるよ」と言われました。
帰る日はどんな気持ち?
NICUを出た後に、練習のために小児科に何日かお泊りをしますが、1週間ぐらいの入院で、その間、看護師さんは手を出さないから、お母さんメインで全部やってと、練習やから、と。
その1週間が私はすごくしんどくて。4人部屋での夜中の吸引とか、ほかの子が起きちゃう...とか、それはすごくストレスでした。
個室で1対1だったらまだ楽だったかもしれません。寝る時間とか、病院のルールもあるし。1週間のうち、外泊を2泊3日ぐらいして、実際いたのは4日間ぐらいかな。
「お母さん、もういけるやろ」って先生に言われて、帰ってきた日は「やっと家で過ごせる」と思って、なんかホッとしました。
退院時には訪看さんに全部つないでもらった?
つないでもらったのは訪看さんと往診の湯川先生だけでした。デイに関しては全然そういうのがあるって知らなくて。知識がないから。
NICUにいたときは手厚く守られていて、みんな優しくてすごく守られている感じでした。でも、家に帰るとそういうのはなくなるから、放り出された感覚になるんです。
NICUにいるときに、家に戻ってからの話とかを聞いていると、もっとイメージがわきやすかったのかもしれません。
今はお母さん、上手に預けたりされているけれど、ご自身で調べた?
周りから教えてもらいました。訪看さんや保健師さんから。療育園とかも、そういうものがあるって知らなかったけど、教えてくれたり、つないでくれたり、受診まで手を引いてくれました。
訪看さんが毎日来てくれるから、とりあえず困っていることは相談しました。当時は育休の状態で、復帰したくていろいろ調べたけど、胃ろうも切開もしてなくて預け先がなかったから、ずっと家でみていました。訪看さんは毎日来てくれて、あとリハビリも。
でも家からは出ていませんでした。家の周りを散歩するぐらい。すぐに帰れる距離で。
今は毎日出かけています。小学校上がってからかな。最近です。こんなに出られるようになったのは。
そのきっかけ後、ご自身の考え方や行動はどのように変わっていきましたか
実際に前向きになれたのは退院後に、おうちで24時間一緒に生活してからです。帝王切開だったからかもしれないけど、本当に産んだのかな、と現実味がなくて、しかも1日に数時間しか会ってなかったから、実際に自分でしっかり見るようになってから、あんまり悪いことは考えなくなったかな。
心配は常にありますけど、やらなきゃって感じで。
それが日常。これが子どもと私の日常になって。最初気管切開していなかったので、そのせいで『ぜえぜえ』ずっと言ってて、吸引しなきゃ!大丈夫かな?とか。
主人が結構当時は忙しくてほぼ家にいない。土日も家に持ち帰った仕事をして、一人でほぼ見て、何か相談する時間もない、それはしんどかったです。
今は時間ができて、すごくいろいろしてくれます。お母さんはどうしても子どもといる時間が長くなる中で、父が子どもと過ごす時間はめちゃくちゃ大切だと思います。
やっと今の生活リズムができたかなと。
今のご自身のお気持ちはどうですか
子どもを安心して預けられる居場所が何か所もできて本当にうれしいです。私にとっても自由時間が増えたし、時間の使い方が固定できてきたから、二人目を考える余裕ができました。下の子も上の子の存在はわかっている感じ。
もう少し大きくなったら、呼吸器を触ったり、いろいろあるかもしれない。POPOLON親の会で、そういう話も聞きたかったかな(親の会:SOLARE)。
障がいがある子の親になるってお先真っ暗やと思っていました。
でも、イメージしていた生活と、どんどんどんどんかけ離れていくんです。
楽しいこと全然ないんじゃないかなとか。そんな感じでした、当時は。でも困っていたら周りに助けてくれる人がいるし、サービスも充実していて。それは、この地域だからなのかもしれないけど、サポートもしっかり手厚くしてもらっていて。
普通の生活はもうできないと思っていたけど、人とは違うかもしれないけど、楽しく生活できるんだなってわかりました。もちろん大変なことはいっぱいありますけど。
自分たちだけで抱え込まないで、みんなが支えてくれるし。そんなに悲観しなくてもよかったなって。
同じ境遇の保護者さまたちに、何かかけてあげたい言葉はありますか
一つ、8年間通してわかったのは、何か困ったことがあったら、できるだけ周りの人に「言う」。「言う」ことが、本当に大事だなと思っています。一人で抱え込むのではなくて。
調べることは自分でもできるけど、周りの人の「知識」を借りる。
それはサービスを使うとか、生活をよくするためにはすごく大事かなと思うんです。自分一人で調べるのも限界があるし、自分で全部やるとしんどいじゃないですか。
周りにいる人にぽろっというだけでも、わーって広がって共有してくれたり、調べてくれたりするから、困ったこと、全然小さいことでもいいから、「言う」事が大事かな。
「言葉にして周りに助けを求めること」が、本当に大事だって思いました。
最後に、自身のお子さんに一言。
(少し静かに考え込まれた後)
一緒に暮らせるだけでいいかな(笑顔)。元気でおうちで過ごせれば、それだけで十分です!
『編集記』
長時間のインタビューでは、ひとつひとつの質問に心を込めて丁寧にお答えいただきました。現在、お子さまは小学校やデイサービスに通いながら、POPOLONもご利用されています。
お母さまは、「元気でおうちで一緒に過ごせれば、それだけで十分です!」と笑顔で語られ、ご自身の時間や第二子との時間を大切にしながら、お子さまを支える環境を丁寧に整えてこられました。その表情には、お子さまへの揺るぎない愛情と強い信念が感じられました。
医療的ケア児とそのご家族が、自分にあったサービスや支援を、安心して選択できるように――。
「切れ目のない支援」と簡単に言うことはできますが、その一端を医療型特定短期入所施設POPOLONが担えるよう、これからも積極的に情報を発信してまいります。